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第18回「伴奏ではなく、共演。」調和を奏でる鍵盤奏者・森下柚香さん

更新)

バッハとの出会い、チェンバロが教えてくれた音楽の本質──「音楽は神からの贈り物」と語る森下さんの歩み。

音楽は、皮膚の一部

 

 

「音楽を続けようと思ったことはありますか?」

 

そんな質問を投げかけると、森下さんは少し困ったように笑いました。

 

「……続けようと思ったことがないんです。」

一瞬、その意味が分かりませんでした。

 

音楽家へのインタビューでは、「幼い頃から好きだった」「夢だった」「努力して続けてきた」といった答えを耳にすることが少なくありません。けれど森下さんの答えは、そのどれとも違いました。

 

「音楽と一緒にいるのが当たり前なんです。だから、続けるとか、やめるとか考えたことがなくて。」

そして、静かにこう続けました。

 

「音楽は、皮膚の一部。そのものなんです。」

 

その一言で、この日の取材のテーマが決まりました。幼い頃からピアノを学び、チェンバロ、オルガンへと世界を広げ、古楽を深く探究してきた鍵盤奏者。地域のコンサート、高齢者施設での演奏、そしてアンサンブル「こいねこ」での活動。

 

森下さんは、さまざまな場所で音楽を届けています。けれど、その歩みを「ピアニスト」「チェンバリスト」という言葉だけで表すことはできません。

 

なぜなら森下さんが語ってくれたのは、演奏技術や経歴ではなく、「音楽とは何か」という問いそのものだったからです。

・この人は違う

 

幼い頃から、森下さんの周りには音楽と美術がありました。休日には美術館へ出かけ、演奏会へ足を運ぶ。芸術は特別なものではなく、日常の中にありました。

 

そんなある日、テレビで流れていた音楽教室のCMを見て、「楽しそう」と感じたことがきっかけでレッスンへ通い始めます。そして、その頃から学んでいた内容は少し特別でした。和声など、本来は音楽大学で学ぶような内容にも、幼いうちから触れていたといいます。

 

だからでしょうか。

 

森下さんが心を奪われたのは、華やかな技巧ではありませんでした。

 

「小さい頃から、バッハが好きだったんです。」

その言葉には迷いがありません。

 

特に好きだったのは、《インヴェンション》。「他の曲とは何かが違う。」幼いながらにそう感じていたそうです。

 

インヴェンション全15曲は、今でも気づけば弾いてしまうと笑います。もちろんショパンやラヴェルも好きでした。ストラヴィンスキーの《火の鳥》にも衝撃を受けました。

 

けれど森下さんが惹かれていたのは、旋律の美しさだけではありません。「フルスコアを見るのが好きだったんです。」演奏するだけではなく、音楽全体の構造を眺める。

 

どの楽器が、どんな役割を担っているのか。音楽がどう組み立てられているのか。

 

子どもの頃から、そんなことに夢中になっていたといいます。今振り返れば、それは後に古楽の世界へと進む、最初の一歩だったのかもしれません。

チェンバロ

・「わあ……。」チェンバロとの出会い

 

その出会いは、小学生の頃に訪れました。演奏会で初めて目にした、一台のチェンバロ。きらびやかな装飾。ピアノとはまったく違う姿。そして、そこで奏でられる音。

 

「わあ……。」

 

その時の感動は、何年経っても忘れられないそうです。演奏が終わると、客席から舞台へ向かい、演奏者へ話しかけに行ったことまで覚えています。

 

「その時に、チェンバロという存在が頭の中に入ったんです。」

まだ、自分が将来チェンバロを弾くなんて思ってもいなかった頃のことです。

 

けれど、その小さな出会いは、長い年月を経て人生を変えることになります。やがてバッハを弾くようになり、ふと考えました。

 

「この曲を、チェンバロで弾いたらどうなるんだろう。」

 

その好奇心が、森下さんを新しい世界へ導いていきます。そして実際にチェンバロを学び始めた時、心の中で確信したそうです。

 

 

 

「私が求めていたのは、これだった。」

 

 

あの日、小学生の頃に見たチェンバロは、何年もの時を経て、自分を待っていてくれたような存在だったのです。

 

・バッハの先に待っていた「チェンバロ」という運命

 

そんな森下さんが、小学生の頃に忘れられない出来事があります。

ある演奏会で、チェンバロを演奏する姿を目にしたのです。

 

「わあ。」

 

その感動は今でも鮮明に覚えているそうです。演奏後には客席から舞台へ向かい、演奏者へ話しかけたことまで覚えていました。その時に、「チェンバロ」という存在が心の中へ刻まれました。

 

そして成長し、実際にチェンバロを学び始めます。最初は、バッハをチェンバロで弾いたらどんな音になるのだろう。そんな純粋な興味でした。しかし実際に学び始めると、それは想像をはるかに超える体験だったそうです。

 

「私が求めていたものは、これだった。」

 

チェンバロは、ピアノとはまったく違う楽器でした。音を出したあとに強弱を変えることはできません。だからこそ、音を出す前に考えなければならない。一音一音に意味がある。その経験が、逆にピアノという楽器の魅力を理解することにもつながりました。

 

そしてもう一つ。

 

チェンバロを学んだからこそ、作曲家が生きた時代や歴史、文化にも自然と興味が広がっていったといいます。音楽だけではない。音楽が生まれた背景まで知りたい。その探究心が、現在の森下さんの音楽を形づくっていきました。

一人の音楽家が"演奏家"になった瞬間

・弾けるだけでは、音楽にはならない。

 

「チェンバロを始めて、本当の意味で楽譜の読み方を知りました。」

森下さんはそう振り返ります。

 

ピアノを続けてきた時間が無意味だったわけではありません。けれど、チェンバロと出会ったことで、それまで見えていなかった世界が一気に広がったといいます。それは、楽器が変わったからではありません。音楽を見る目が変わったからでした。

・自分で考えて。

 

チェンバロを学び始めて出会った恩師、新谷先生。森下さんは今でも真っ先に

 

「洞察力に長けた先生」

と言います。

 

演奏技術だけではありません。音楽そのものを、どう考え、どう理解するのか。その姿勢を教えてくれた先生でした。レッスンで何度も言われた言葉があります。

 

「自分で考えて。」

 

新谷先生は、答えを教えてくれる先生ではありませんでした。

  • 弾く。
  • 間違えない。
  • テンポを守る。

そういうことではない。

  • 「なぜ、この音なのか。」
  • 「なぜ、ここで和声が変わるのか。」
  • 「なぜ、この作曲家はこの書き方をしたのか。」

答えを教えてもらうのではありません。自分で考え、自分で見つける。その積み重ねが、音楽を深くしていくことを教わったのです。

・理屈で理解し、感性で音楽をつくる

 

感覚だけでもない。新谷先生から学んだことで、一番大きかったことは何ですか。そう尋ねると、森下さんは少し考えて答えてくださいました。

 

「理屈と感覚がつながったことですね。」

和声には理由があります。転調にも理由があります。

 

「ここ、素敵だな。」

そう感じる場所には、ちゃんと音楽的な理由がある。反対に、理論だけ知っていても音楽にはなりません。感動がなければ、人の心は動かない。

 

理論と感性。

 

その両方を行き来しながら音楽を作ること。それが、先生から教わった最も大きな財産でした。

 

「先生に出会っていなかったら、今の私はありません。」

その言葉は決して大げさではなく、森下さんの音楽人生そのものを表しているようでした。

・「チェンバロは、私に音楽を教えてくれた。」

 

取材の最後に、この章を書きながら、私は一つのことに気づきました。森下さんは何度も、

 

「チェンバロを始めてから」

という言葉を口にされていました。

 

チェンバロは、演奏するための楽器ではありませんでした。

  • 楽譜を読むこと。
  • 歴史を知ること。
  • 作曲家の意図を考えること。
  • 誰かと音楽をつくること。

そのすべてを教えてくれた存在だったのです。だから森下さんは、あの日感じた「私が求めていたのは、これだった。」という言葉を、今でもはっきり覚えているのでしょう。

伴奏ではなく、共演

 

「伴奏の魅力って、何でしょう。」

そう尋ねると、森下さんは少し笑いながら、

 

「うーん……。」と考え始めました。「鍵盤をやっている人って、ソロの魅力もよく知っているんですよ。」ピアノは、一人で音楽を完成させられる楽器です。

  • メロディも。
  • 伴奏も。
  • リズムも。
  • 和声も。

すべてを一人で表現できる。それは鍵盤楽器ならではの、大きな魅力です。「でも。」そう言って森下さんは続けました。

 

「私はアンサンブルが好きなんです。」

 

・一人では作れない音楽がある。

 

  • 歌がある。
  • チェロがある。
  • ヴァイオリンがある。

それぞれが役割を持ち、それぞれがお互いの音を聴きながら、一つの音楽を作っていく。

 

「だから私は、便宜上『伴奏』とは言いますけど……。」

少し笑ってから、こう続けました。

 

「気持ちとしては、共演なんです。」
その一言に、私は今回の取材で最も心を動かされました。

 

「伴奏」という言葉からは、どこか「支える人」という印象を受けます。けれど森下さんの中では違います。

  • 歌う人も。
  • 弾く人も。
  • 誰か一人が主役ではありません。

みんなで一つの作品を作る。だから、

 

「共演。」

 

その言葉が、一番しっくりくるのです。

・自分のパートだけを弾いてはいない。

 

「共演するとき、一番大切にしていることは何ですか?」

そう聞くと、少し驚く答えが返ってきました。

 

「自分のパートじゃないところも歌っています。」

もちろん実際に歌っているわけではありません。頭の中で、です。

  • 歌のフレーズ。
  • チェロの旋律。
  • ヴァイオリンの動き。

自分が弾いていない音まで、いつも頭の中では一緒に鳴っています。

 

「自分だけになったら、おかしいじゃないですか。」

その言葉が、とても印象に残りました。

 

自分だけが目立ってしまえば、もうアンサンブルではありません。相手の呼吸を感じながら、作品全体を一つとして聴く。だから森下さんは、自分が弾いていない音まで、いつも一緒に演奏しているのです。

音楽の土台を作る人

 

音楽ユニットこいねこには、ドラムがありません。

だから、

  • テンポ。
  • リズム。
  • 拍の流れ。

それらを支える役割を、鍵盤楽器が担うことも少なくありません。

 

「リズムは支えなきゃいけない。」

そう話す森下さん。それは決して目立つ役割ではありません。

 

けれど、音楽が安心して歌える場所を作る。土台を作る。その役割に、大きな誇りを持っていることが伝わってきました。

・通奏低音が好きなんです。

 

今回の取材で、森下さんが一番楽しそうに話してくださったのは、実はこの話でした。

 

「私、通奏低音が好きなんです。」

古楽では、左手だけが書かれていて、右手は演奏者自身が和音を考えながら演奏することがあります。つまり、毎回同じ演奏にはなりません。共演者が装飾を入れれば、こちらも応える。

 

  • 今日は少し違う和音にしてみよう。
  • ここは軽く。
  • ここは深く。

その場で生まれる会話があります。

 

「今の、良かったね。」

そんな瞬間が、本番の中で何度も生まれるそうです。

「普通にショパンを弾いているだけでは味わえないんですよ。」

その笑顔からは、古楽という世界への愛情があふれていました。

・「調和」という言葉が好き

 

「良い伴奏って、何だと思いますか。」

最後にそう尋ねると、森下さんは少し考え、答えてくださいました。

 

「その曲で、自分の役割を理解すること。」

「そして、一つの曲として調和が取れるように音楽を作ること。」

 

そこまで話したあと、少し照れたように笑って、こう付け加えました。

「私、『調和』という言葉が好きなんです。」

 

この日の取材で聞いた話が、その一言ですべてつながった気がしました。誰かを引き立てることではない。自分が目立つことでもない。音楽そのものが、自然に美しく響くこと。森下さんが目指しているのは、きっとそんな世界なのだと思います。

地域で生まれる「一体感」

 

コンサートホールで演奏することと、地域で演奏すること。そこに違いはありますか。そう尋ねると、森下さんは迷うことなく答えてくれました。

 

「お客様との距離が近いことですね。」

ホールでは客席との間に適度な距離があります。

 

けれど、高齢者施設や地域のイベントでは違います。演奏が始まると、表情が見える。口ずさむ声が聞こえる。手拍子が自然と生まれる。時には涙ぐむ方もいる。

 

「反応がダイレクトなんです。」

だからこそ、どんな曲が届いたのか。どんな音楽が喜ばれたのか。演奏しながら、その空気を感じ取ることができます。

 

「一体感が生まれる瞬間が好きなんです。」

森下さんはそう言いました。その「一体感」という言葉は、今回の取材で何度も耳にした「調和」と、どこか重なって聞こえました。

 

演奏者だけでは音楽は完成しません。聴いてくださる方がいて、その場の空気が重なって初めて、一つの時間が生まれる。森下さんが大切にしているのは、そんな音楽なのだと感じました。

・毎回違うから、面白い。

 

「印象に残っている演奏はありますか。」

そうお聞きすると、森下さんは少し考えてから笑いました。

 

「いっぱいあるから難しいですね。」

そう前置きしながら話してくださったのは、古楽演奏ならではの面白さでした。

 

古楽では、左手だけが書かれ、右手は演奏者自身が和音を考えながら加えていく場面があります。つまり、毎回まったく同じ演奏にはなりません。共演者が装飾を加えれば、自分もそれに応える。

  • その日の空気
  • その瞬間のひらめき
  • その日、その場でしか生まれない音楽があります。

 

「『今の良かったね』という瞬間があるんです。」

 

その言葉には、演奏者だけが知る喜びが込められていました。演奏とは、完成されたものを再現することではありません。その日、その場所、その仲間だからこそ生まれる音楽を、一緒につくり上げていくこと。

 

その考え方こそ、森下さんが何度も語ってくださった「共演」なのだと思いました。

音楽ユニットこいねこ(左:松浦わか奈さん)

音楽ユニットこいねこ(左:荒井俊匡さん)

音楽ユニットこいねこ(左:松浦わか奈さん、中:りえさんかっ

・違うからこそ、響き合える

 

現在、森下さんは音楽ユニット「こいねこ」の一員として活動しています。活動について伺うと、真っ先に返ってきたのは、メンバーへの感謝の言葉でした。

 

「みんな、バックボーンが違うんです。」

 

それぞれが歩んできた道は異なります。だからこそ、お互いの考え方や得意分野を尊重し合える。「私は皆さんに助けてもらっています。」そして、少し照れくさそうに続けました。

 

「私も、自分の得意なことは出し惜しみしません。」

 

そう笑う森下さん。「自分がどう見えるか」ではなく、「音楽がどう良くなるか」。それを自然に考えられる人だからこそ、「調和」という言葉が何度も出てくるのでしょう。

 

これから挑戦してみたいことを伺うと、少し目を輝かせながら、こんな夢を話してくださいました。

 

「実は、チェンバロでモーツァルトを弾いたことはあるんです。」

その経験を踏まえ、今後はアンサンブル「こいねこ」の活動でも、チェンバロを取り入れたコンサートに挑戦してみたいといいます。

 

「例えば、モーツァルトの《フィガロの結婚》やヘンデルの作品などを、チェンバロで演奏できたら面白いなと思っています。」

現在のこいねこの公演では、ピアノを使用することがほとんどです。

 

けれど、チェンバロの音色が加わることで、当時のオペラが持つ雰囲気や空気感を、より身近に感じてもらえるのではないかと考えています。「本格的だけれど、気軽に楽しめる。そんな形で当時のオペラの魅力をお伝えできたら嬉しいですね。」古楽を専門に学んできた森下さんだからこそ描ける、新しい「こいねこ」のステージ。

 

その挑戦は、これからの活動に新たな彩りを添えてくれそうです。

・音楽は、神からの贈り物。

 

取材の最後に、こんな質問をしました。

 

「森下さんにとって、音楽とは何ですか。」

少しだけ考えたあと、ゆっくりと答えてくださいました。

 

「魂が揺さぶられるものです。」

その答えは、とても静かでした。けれど、力強く心に残ります。さらに続けます。

 

「音楽は、あって当然のものなんです。」

「何に触れていても、音楽があることで、生きていることを感じられる。」

 

その言葉を聞いて、記事の冒頭で話してくださった

「音楽は皮膚の一部。」

 

という言葉を思い出しました。音楽は特別なものではありません。人生を彩るものでもありません。森下さんにとって音楽は、生きることそのものなのです。

 

森下さんには、大切にしているラテン語があります。

MVSICA DONVM DEI

「音楽は神からの贈り物」

 

その言葉は、ご自身のチェンバロにも記されています。

編集後記 取材・文:陳書涵

 

 

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