小嵐九八郎様への手紙 ―蜂起には至らず― その1
あなたは私を知らないだろうが、私は知っている。
69年~70年にかけて、東京の番外地 中野刑務所内でお会いしています。又、東京地裁でもお会いしています。
じつは、あなたのデモ計画の中で、東京築地の空に向かって火炎瓶を投げた一人です。
文筆家としてのご活躍おめでとうございます。「蜂起には至らず」の力作よく調査して書かれています。その当時にはわからなかったことを知ることができ、私の精神もいくらか軽くなっています。
この手紙の中でいささかの苦言を述べたいと思います。
あの1969年の闘いは何だったのだろうかといまだに自問をしています。
まず組織的なことです。
もとより、69年10~11月闘争は全力を挙げて決戦をいどむことは覚悟の上でした。私のような地方からの上京組は、九州・北陸地方の大学からも来ていました。
私らはズブの素人集団みたいなものですが、デモの先頭に立って突撃していくことは意志一致していました。
今更何を云ってもどうにもならないのですが、私はどうも戦術的に十分準備されたものではなかったのではないかと疑問が残ります。警察の警備の中に突入していったようなものです。
とは云え、こういうこともありかと思い、仲間のことは一切しゃべらず完黙を貫き通しました。しかし、四国からの上京組はほとんどが分離公判をうけ元の学生に復帰していったのも事実です。
多くの人が去りました。
その後私は中国・四国で大衆闘争をやりました。
1976年ごろまではK派との党派闘争もそれほどは感じることなく過ごしていました。
なによりも沖縄闘争・三里塚闘争・部落解放闘争の中央集会には必ずといってよいほど馳せ参じました。
労働者の階級的確信・強さを信じて、ルンペンプロレタリアートと云われようが頑張ってこられたのは、あなたがいた神奈川県評青婦部の闘いです。革労協がどうこうというよりは、行動委員会―プロレタア統一戦線―共同行動戦線の領域で戦うのが私の使命であると信じていました。革共同以外とは、岡山・広島ではいっしょにやっていました。(核があってこその解放派潮流でした。)
中原一虐殺は言葉では云えないほどのショックでありました。
しかし、私は離脱者です。□○との死闘戦を闘ったあなたには及びません(早大闘争以来の積年の恨みがあるあなたと、私どもとの間には温度差があります)。
とはいえ、一瞬の出会いである。あなたが元気に小説を書かれていて健在の御様子、おめでとうございます。
あなたは私を含むメンバーの「高裁判決」が下された後、高裁前で集まってちょっと立ち話をしたのを覚えていますか。
その時、今何をしているかの話になった時、東Cの連中に「さすが東大はつぶしがきく」と云いました。
それから40年後の今、私は「さすが早大政経はものが違う」とあなたに紙上で云います。
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